太平洋戦争末期、本土決戦に備えて糸島市志摩船越を中心に設けられた、海軍の秘匿基地「玄界基地」。フロートという浮舟を備えた水上飛行機が100機以上配備された大きな基地だった。
玄界基地に関する公的な情報はほとんど廃棄され、その存在は長くベールに包まれたままだった。地元の有志の研究によって、ようやく基地の詳細が明るみに出たのは、平成になってから。現在は本部が置かれていた船越には記念碑が建てられ、地域が基地の町であったことを伝えている。
玄界基地は船越だけでなく、船越湾の対岸の二丈松末(ますえ)と、引津湾の対岸の志摩新町・志摩岐志にも設けられていた。新町と岐志には基地跡が残っておらず、基地が話題に上ることは多くない。しかし新町に配備された「零式水上偵察機」は周辺海域の偵察だけでなく、魚雷を抱えて低空飛行で雷撃する計画もあり、新町は重大拠点になる予定だった。
そんな新町の基地について、当時小学2年生だった大部節子さん(83)と、高等小学校2年生だった濱近きくえさん(90)の話と、大部さんの家に整備兵として寄宿していた宗重律次さんの手紙をもとに当時の地図を作成した。
昭和20年7月28日、宗重さんは約30人の仲間とともに零式水上偵察機の整備のために、佐世保から新町に赴任した。当時行政区長をしていた自転車屋さんからの要請で、新町で4軒が整備兵の宿泊を受け入れたという。大部さんの家には宗重さんら5人が、2階の6畳の部屋に寄宿した。
船越では食事と風呂は基地内で済ませていたが、新町では地域で行っていた。南林寺で煮炊きした料理を食缶で運び、大部さんの2軒先の家で8畳2間をつなげて約30人で食事をしていたという。風呂は各家庭の五右衛門風呂を利用し、家の人は先に整備兵から入らせていたそうだ。
民家は現在の県道54号線沿いに立ち並んでいたが、その裏手は大きな松が何本も生えていた。飛行機はその松の木を隠れ蓑にして約10機を格納していた。地元の人が「オットン濠」と呼ぶ小さな川近くに茶屋があり、そのすぐそばに海岸からのレールを敷いて陸揚げしていたという。濱近さんの家族が経営する製材所が駐機エリアに差し掛かり「材木は飛行機のじゃまにならんようにどけとった」と濱近さんは言う。
濱近さんの家は真裏が飛行機の駐機エリアだった。「『入っちゃいかん。見ちゃいかん』と言われていたので、あまりじっくり見ることはなかったが、塀は設けられなかった」と言う。民家や事業所など地域の人々の日常と軍事施設の近さに驚く。
宗重さんら整備兵の毎日の仕事は、飛行機の試運転や燃料補給など。寺の近くに防空壕を掘ることもあった。そして5日に1度は山へ行って木の枝を切って基地に運び込んだ。飛行機の翼の上に並べて、上空から敵に発見されないようにするためだ。毎日6-7機が偵察に飛び立っていたが、戦闘するわけではないので、特に傷を負うこともなかったようだ。
戦後、これらの飛行機は敵に使われないようにするために、機体を壊し無力化された。大部さんの兄の正義さん(当時小5)など、地域の人は壊れた部品を取りに行って、日用品の部材などに使っていたそうだ。
何年も経ったあとで、大部さんと交流が続いていた宗重さんから「玄界基地の飛行機の思い出の品がほしい」という話があり、大部さんの家族は地域の人がチリトリに使っていた零式水上偵察機の金属片を譲り受けて、宗重さんに送った。金属片には製造番号などが記載されたプレートが着いており、宗重さんは大切に保管していたという。
当時を振り返り、大部さんは懐かしそうに話す。
「私の家に来ていた兵隊さんはみんないい人ばかり。特に宗重さんは律儀で丁寧で立派な人。整備の仕事の後でうちに帰ってきたあと、兄と一緒に2階に上がって遊んだり歌を歌ったりして楽しかったです。
兵隊さんには寝床を提供するだけでしたが、祖母はときどきおやつにすいとんを作ってあげていました。うちは農家だから野菜もあったし、近くでとれるイリコの出汁がおいしかったようです。夜9時に兵隊の班長さんが消灯点検に来ますが、その後でコッソリ起きて食べていましたね。終戦で宗重さんたちが帰ったあと、私もですが兄は特に寂しかったようです」
新町に基地があったのはわずか1ヶ月足らずだった。地域の土地や民家、お寺などを利用した基地だったから、格納庫も兵士宿舎もない。基地の名残は何もないが、町全体が基地の跡地とも言える。大部さんや濱近さんの話や、宗重さんの残した記録からは、この町に基地があって、地域の人々との交流や支え合いがあったと知ることができる。目に見えるものが何もないからこそ、この記憶を言葉で語り継いでいかなければならないと、切に思う。
「パノラマ玄界基地」
ぶんぶん・ワークス著
漫画やコラムなどで分かりやすく面白く玄界基地や基地周辺で暮らす人の様子が描かれていておすすめです。糸島市の志摩資料館の窓口のみで取り扱いしています。