8月6日 8時15分、糸島市内はサイレンの音に包まれました。
家事の手を止めて、戦争や原爆で亡くなった方へのご冥福と未来の平和を願い、黙とうしました。
今年は戦後75年。
糸島に空襲の被害を受けた地域があります。
市の中心街から南に3.5kmほど離れた場所にある雷山校区です。
青々とした田園風景が広がり、南には背振山地、頭上には360度の空が広がる自然豊かな場所です。
その出来事を知るまでは、ただそう思っていました。
昭和20年6月19日の深夜、米軍のB29がいくつもの焼夷弾を旧雷山村に投下。
一瞬のうちに炎が広がり20数戸の家屋を焼き尽くし、8名の尊い命が奪われました。
6月に糸島新聞社さんのお仕事で、雷山空襲の語り部をしている大原輯一さんに取材した際、空襲跡の一部を案内してもらったので紹介します。
大原さんは、雷山空襲が起こった当時は生後6カ月の赤ちゃんで当時の記憶はないが「被災地に住む者として当時あったことを知り、次世代へ伝えなければ」と6年前から語り部の活動をしています。
〇雷山空襲跡
(1)宝満宮(蔵持)
雷山小学校から南に歩いて5分ほどの場所にあり、鳥居をくぐると子どもたちがかけっこして遊べるほどの広場、奥にはブランコやすべり台の遊具もあります。
昔は近所の子どもたちの遊び場だったんだろうなという印象です。
拝殿に焼夷弾の焼け跡が残っています。
拝殿向かって右へ回ると、妻の部分に焼け跡があるのが分かります。
大原さんが携わった冊子「雷山空襲フィールドワーク」によると、当時は水がなく肥桶の肥をかけて消したともいわれ、数日は臭くて近寄れなかった、とあります。
(2)焼け焦げた跡が残る住宅(香力)
宝満宮の近くに今は空き地の住宅があります。
当時は料理店で「隣家から燃え移った火をなんとか消そうとした」と大原さんが説明してくれました。
(3)興福寺(香力)
ここには爆風で頭が吹き飛ばされたお地蔵さんが静かに立っています。
首から上は破壊されたものが残されているそうです。
大原さんは「昔はこの辺りはほとんどが農家。藁ぶき屋根の家もあってね」と話します。
「遊ぶと言ったら外遊びがほとんど。子どものころは靴もなくて裸足で野山を走り回ったり。遊び場はお宮とお寺。雷山大溜池はよく泳いだね」と当時の記憶を懐かしみながらたくさん話してくれました。
農家の両親は忙しく何でも手伝ったそうです。
「草取り、牛小屋の掃除、風呂焚き。麦狩りは米のようにリズムよく刈れなくて、穂先が首まわりにあたってチクチして。それはトラウマになるほど」と大原さん。
「おやつはふかした芋。どうしてもお腹がすいたときは生芋をかじっていたよ」
大原さんが子どものころよく遊んだという三社神社を案内してくれました。
〇三社神社(香力)
宝満宮から西へ300mほど離れたところにあります。
出征前には家族や近所の人たちがお宮に集まって手を合わせ見送りました。
20段ほど階段をのぼっていくと大きな楠と拝殿が静かに佇んでいます。
拝殿の中を案内してもらうと「三社神社」「金刀比羅神社」と書かれた2つの扁額が掲げられていました。
これは空襲で焼けてしまった「金刀比羅神社」を移して合祀しているため、と大原さんが説明してくれました。
神社を後にするとき「この楠は雷山空襲の生き証人」と言った言葉が心に残っています。
紹介した3カ所のほかに、蔵持・香力には20人くらいが避難した防空壕の跡や焼夷弾の直撃を受けたものの枯れずに生き残った椎の木など8カ所の空襲の跡がフィールドワークコースとなっています。
雷山校区では、「雷山空襲」を風化させず後世に伝えていこうと、毎年6月19日に小学校で平和学習が行われています。
蔵持、香力行政区の子ども会ではフィールドワークの取り組みが行われ、地元に残る空襲の跡を回り、雷山空襲の出来事を身近に感じる場になっているそうです。
子どもたちは平和学習で雷山空襲を学ぶため、親以上に雷山空襲のことを知っていると思いますが、私のような親世代も関心を持つことが大切なんだと気付かされました。
自分の目で見て、また当時の人たちの暮らしを知ることで、今ある生活が当たり前ではないこと、平和に対するありがたさを深く感じました。