松籟(しょうらい)に記憶うすれし兵舎跡
「遊びと言ったら、仕事が遊び。今、昔遊びと言って学校で紹介しているような遊びは、その頃はできなかった」糸島市二丈福井の鬼嶋武司さんが戦時中のことを語ってくれた。
1945年、福吉に玄界秘匿基地があった当時、鬼嶋さんは福吉国民学校(現 福吉小学校)の6年生。
小学校の講堂は兵舎になっており、隣の木造倉庫の床には爆雷がびっしり保管されていた。その傍で子どもたちは遊び、青空教室を余儀なくされた。読み書きなどの学習は、手旗信号や竹槍の練習、整列、行進の訓練へと変わった。厳しい先生の怒号とともに、よく叩かれたと言う。
「毎日兵士の手伝いや訓練で、教科書は学校に置きっぱなし、戦時中は勉強する気にもならなかった。あの頃の教育は戦争のため、兵隊のための教育。今は、子どものための教育、それはとてもありがたいこと」と話す。
帰宅後は日が暮れるまで家の手伝い。子どもができる仕事はほとんど任された。戦争で50歳から下の健康な男子は兵役で家を留守にしており、男手のない中、母や祖母が家と子どもを必死に守っていた。
記憶の中の母の印象は、強くてたくましい大和撫子。戦争が始まって、母の腰巻きの着物姿がもんぺ姿に変わった時は「なんて画期的なのだろう」と子ども心に思ったそうだ。
鬼嶋さんから貴重な資料「船舶特幹二期生の記録」をお借りした。
本土決戦を前に、極秘に進められていた旧陸軍の水上特攻隊。モーターボートに爆雷を積んで、敵の艦船に突撃するという任務を受けた兵士の覚悟が実直につづられている。
読むと、広島県江田島の幸の浦での訓練の様子、特攻隊として糸島の深江村に降り立った時の様子、民宿でお世話になった人々への感謝や、福吉国民学校駐屯のこと、家族からの便りなど、終戦直前までの出来事や思いの丈が記されていた。
若干20歳の兵士が特攻隊に任命され、己の責務と使命に心奮い立たせ日々訓練に励む様子に、畏敬の念で胸がいっぱいになった。鬼嶋さんが、熱く涙ながらにこの資料を手渡してくれたことの意味をかみしめる。
日誌の中には、ふと目にする野の花や故郷の季節の情景が随所に書かれており、自然の姿に心を安らげる瞬間がどれほど尊かっただろうと、命を捧げる覚悟をした人の魂の美しさを感じずにはいられなかった。
75年前、福吉の浜辺で並々ならぬ想いを抱き、懸命に生きていた若き兵士たちの足跡を、私たちは波に消してはいけないし、後世に残していくべきだ。
正直、戦争といえば、沖縄、広島、長崎などをイメージすることが多く、一番身近な糸島の戦時中の様子など、今まで想像すらしていなかった。今回、ママライターとして地元の戦争体験者の生の声を聞けたことは、とても貴重な体験で、心から感謝している。
戦時中の証言を残せる人が年々減っていく中で、今しか聞けないこと、話せないことがたくさんあると思う。もし、身近に体験を語ってくれるような人がいれば、耳を傾けてみてほしい。
戦後75周年、哀悼の意を 松原に吹く潮風によせて